2009年08月15日

八月十五日の菖蒲〜京極夏彦『魍魎の匣』の感想

八月十五日の菖蒲(あやめ)〜京極夏彦『魍魎の匣』の感想

姑獲鳥の夏より読後感がよく、この点救われた
読み終えたとき
読んでいる途中で感じた関口に対する怒りが
沈静化し静かな湖面を眺めるようだった

しかし、以下の諸点でひどい小説だ

語らずに絵を見せることができていない
音楽性の欠如
語り手の選択の妥当性

姑獲鳥と魍魎から判断するに
京極夏彦は村上龍の対極に位置する
村上龍は語りを抑えて絵を見せることに腐心する
京極は延々問わず語りを続けるだけ
後述する語り手の問題と直結するが
読者の想像する楽しみを奪わないでほしい
画面で人が泣いているところに
─誰々は泣いていた
─その涙は悔恨と羞恥心のなせるわざだった……
などとナレーターが語りを入れる
大映テレビの古臭い演出を再現しないでもらいたい

すべての芸術は音楽でなければならない
音楽以外の芸術は音楽のへたな模倣にすぎない
このテーゼに立つと
これだけ長大な作品に
リズムとハーモニーが欠けているのはつらすぎる
プロットをマッピングした後に
どこを締めてどこを膨らますか
物語のプロポーションを整える時間が不足している
そんな印象を持った
跳ぶときは思い切り跳んでほしい
すり足に終始している
こういえば言い過ぎになるが
もっとメリハリをつけてほしい
ホップ ステップ ジャンプ!
ホップ ステップ ジャンプ!

姑獲鳥で味わったトリックの欠落は再現しなかった
アンチミステリ的なメッセージ(「トリックなんてないんだ」)とともにだが
読者にとってのトリックはたしかに用意されていた
しかも物語の世界と密接した、必然的で満足できるものだった

もっとも残念でならないのは
ナレーターがまたも関口であることだ
殺意とまではいかないが
わたしは関口をむちでビシビシ叩きのめしたくなった
怒りは594〜595頁で頂点に達した

 木場は、怒っている。静かに、メラメラと怒っている。(594頁)

怒っているのは私の方だ
木場がどんな表情をしたのか、それを客観的に伝達すればいいのだ
おまえの主観を通した、おまえのつばの付いた絵など飲み込みたくない

つまりこの作品で姑獲鳥と同様関口を語り手にしたのは
大間違いなのだ
姑獲鳥には関口をナレーターに起用する必然性があった
ところがこの作品にはそれがない
この点を作者が十分に意識していないことから悲劇が始まった
関口は最低最悪の語り手だ
こんなに鼻持ちならないやつは珍しい
登場人物としても語り手としても邪魔でしょうがない
第一、二作を読んでも関口の人となりが立ち現れてこない
そして作者は一人称の語り手関口に超能力者の洞察力を不用意に与えている
これがぶざまな味わいに直結している
登場人物としてボンクラ役の関口が、語り手としては超人的である

 木場は動かない。彼は今その背中に陽子の視線を感じているはずだ。(595頁)

おこがましい!
なぜこんな不自然な表現が出てくるのか?
それは作者が関口に憑依してしまっているからなのだ
これは未熟な作家にありがちな現象である

 陽子は木場の広い背中を銀幕にして、そこに自らの思い出を投影しているようだ。(595頁)

こんなしゃれた表現をしたいのなら始めから三人称で語るべきなのだ
作者はいや、これは許されると考えているだろう
なぜなら関口は作家だからと
しかしわたしは許容できない
登場人物としての関口の造形がこの時点で飽和していないからである
もしも語り手の関口に執着するのなら
もっと大胆に物語の構成と切断面を変形させた方がいいだろう
その方が文学的芳香を獲得しやすいのではないか

だが、京極堂シリーズを救うもっとも手っ取り早い方法は
語り手としての関口を殺すことなのだ

こんなことばかり考えさせる小説は読んでいて楽しくなかった
ただ読み終えた後には静かな湖面に微風が吹き渡っていた
匣という強力なイメージに貫かれた物語がきれいに収束しているからだろう
これは京極夏彦の成長の証である

語り手としての関口に死を!
もっと音楽を!
三作目に期待したい

2009.8.15土曜 敗戦記念日

Good books, good life.
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posted by 堀内悟 at 17:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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